カメラを構えるとき、、撮ろうとするとき、被写体と向き合ったとき、そんなとき何を考えていますか。

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いろいろなシチュエーションで違うでしょう。僕はどうかなと考えてみました。一人で出かけて美しい風景に出会ったとき。レリーズする前に、生の姿を一緒に来ることができなかった家族と一緒に、フレーム外の景色と共に味わいたいということをいつも考えています。その根っこには一人でいい思いをして悪いなあと思っているわけです。その次には、それが伝わるように撮ろうって考えます。僕が味わった小さな感動を【できる限りそのまま伝えるには】と考えるのです。

結果はいつもイマイチ。設定をいろいろさわりながらも同じ構図でシャッターを切るのは数枚だったりします。不思議でしょう、それだけ思って考えているのにもかかわらず数枚なんて。でも、そのときに僕はこう考えてるんです。

「もっと別の場所にはもっとすごい景色が待ってるに違いない。」

これは射幸心にも少し似ていて、奥へ進んでみたものの何も無かったなんてことはよくあります。骨折り損のくたびれもうけでしょうか。その辺もそっくり。不思議ですが共通点って多いかもしれませんね。レンズを買ったらうまくなるとか、カメラボディーを買えたら劇的に変わるとか。

上記に関してはある意味全くその通りですし、全く違う部分でもあるんですよね。レンズが変わると、本当に変わります。ボディが変わればすべてが変わるんです。でも、400万画素のコンデジで撮った写真で人の心が動くときだってあるんです。

僕の本来求めるところは、そういう写真に込めた気持ちを伝えられるものにしたいのです。が、なかなかそうはいきません(笑)。だから、ただひたすら真似っこしています。フルサイズレンズで撮ったように周辺光量を落としてみたり、フィルムの粒状感を出すためにノイズを乗せてみたりとやってます。覆い焼きや焼き込みで印象的に操作したりもします。試行錯誤ですが、楽しいです。それが面倒になってほとんど撮って出し画像ばかりだったりしますがそれは置いといて。

ここまで書いていてふと気がついたのは、その写真がディスプレイで表示されることを完結とするデータであれ、プリントして完結する写真であれ、発表の瞬間まではいろいろ考えていたりすること。見てくれる人が、「へー。」とか「へたくそだなー」でもいいんです。画像を加工していても、レリーズボタンを押したその瞬間のことを必ず頭に思い浮かべます。あのときのこと。どこに帰結するかわかっていないのですが、きっと大事なことなんだろうとは思うのです。大抵もっと枚数撮っとけばとか考えちゃいますけれど。

これが家族で動いているときだとそうはいかないのです。大抵撮影行為にかかる時間が、みんなの足を止めちゃったりする。そこを考慮してササッと撮影する感じになってしまうので。破綻の無い写りでよしとする。ですから、このときは後で見た際に「ああ!こんなんだったね!」という風に思ってもらえるように撮ることを念頭に置いています。その時のみんなの記憶色に忠実に。

さて、それで撮った後人が見たときにいったいどうなのか。これが不思議なもので、うまく撮れたと思った写真より自分が「すげー!」って思ったように撮ったものの方が、人には「うわあすごい!」といってもらえるような気がするんです。つまり本質を見抜いてるんですよ、きっと。そう思います。何気なく見たそれがそのものの本物を見極めているんだと思います。本物というのはすべての写真がもつ隠せない部分のことです。僕の場合は家族がほとんどですが、8割方そういう結果になってます。これに技術が付いてくればいいんですがね。

どうすればそうなるようにできるのか。カメラの設定も知っていた方がもちろんいいし、機材が増やせないなら現状でできることを熟知して、なおかつそれを現場で対応できるようになる。僕には思い通りいった試しはないので、まだまだやることは多そうですねえ。

想いをのせて写してくいく【写心】を撮ろうっていう、そのために一番大切なこと。それはたぶん、そのときの気持ち。素直な気持ちです。、それを表現するための技術と知識。これなのかなあと。

で、結局はカメラの設定とかほとんどできあがりに反映されていないので、撮っているときは実際何を考えているんだろう、僕は(笑)。



photo credit: nicola.albertini via photopin cc