水族館のあと、最後の目的地である永平寺に向かいました。これは僕の希望でもありました。また、両親も一度訪れるがいいと教えてくれたこともあったので、そこを最後に訪れて買えることにしたわけです。
途中道を間違えてしまい、止まった踏切で思わずパシャリ。ナイスタイミングです、我妻撮影。
ナビもタイミング悪いと、通りすぎてから指示を出すんだなと話していると、なかなかかわいい電車の登場でした。
お子のタイミングもあって食事はコンビニでおにぎりやパンを買いました。目の前の駐車場まで行き、駐車場の中で食べ終わると、不思議に雨が止みました。お子のおかげかも知れませんねと、三人で話しながら木々の中を通り抜けていきます。
平日の雨と言うこともあって、おそらくは少ない人手だったのだろうと思いました。が、リサーチしていなかったため分からなかったのですが、有名な観光地でもあってみやげものコールもすさまじかったです。が、そこはスルーして一番頂上の駐車場をゲットできたのが幸いかも。車を降りてすぐにこの景色の中に飛び込んでいけました。
またしてもタイミング悪く?館内の説明の終わり際に入場。よく分からないまま順路を進みました。しっかり聞いてからだと、また勉強になっただろうに。
ほとんどがとても古いものですが、所々新しいものもありました。しかし、そのすべてが丁寧に掃除され、とても美しい使われ方をしているんだなと感嘆しました。
冬にはまた、別世界が広がり、夏はまた太陽の下で輝くのでしょう。止んではいたものの、ぐずついた天気ではありましたが、だからこそのありのままの姿をみることができ、とても嬉しかったです。
行き交う修行僧は常に修行中であり、見せていただいている我々は、そこに特別な配慮をしなくてはいけません。彼らを撮るために、彼らに向けてカメラを向けるのは禁じられております。とはいえ、いろいろなところにいらっしゃるので、写ってしまうことはやむを得ないようです。しかし、そうではなく、お邪魔させていただいている心を常に持つことが、やはり常識として大切なのだとおもいます。
と、こんなことを書きましたが、これは山門です。
山に立てられているために、立体的に入り組んでいます。そこには歴史と、修行のための施設がたくさんありました。また、四方を囲まれているために、外界から遮断された聖域のような、そんな雰囲気を感じました。
時折小雨がぱらつき、そのしずくが葉を打ち、それぞれが重なって不思議な音を奏でます。雑多な都会では感じることができない、ありのままの音が心地よく耳に届きます。
時間の都合もあって、じっくりゆっくりと回ることはかないませんでしたが、再訪を誓って永平寺を後にし、名古屋へと向かいました。
最終目的地は自分の家ですものね。
僕達にとって、このようなちゃんとした(?)旅は初めてのものでした。自分でプランニングして、あれこれなやんで、そして実行してと。そのプロセスもとても楽しいものだと、やってみないと分からないこともあって、勉強になり、楽しんで、学ぶことができました。
以前一人暮らしの時、出不精の極みのような生活をしていましたが、彼女と出会うことで少しずつ外を楽しむことができるようになり、ある意味普通のひとのような真似事もなんとか格好がつくようになっていきました。いまは、色な事に興味を持つようになり、またそれでお金も浪費してしまっていますが、楽しむことを楽しんでいけているような気がしました。
永平寺に訪れたことも、幾分かは心に作用したかの様子で、前よりはほんの少しだけささやかなものにまで感謝する心を持てるようにもなりました。ポイントがズレると烈火の如く攻撃的な内容も記したりもしますが、安寧とはなんぞやと自問自答することも出きるようになりました。
とにもかくにも、よい旅をまたしてみたいと思っています。
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永平寺・・・自分は行ったことないですが、親が行った感想を聞いたら、入場料を取るだけあって、中は身延山よりすごくきれいだった、と。
こちらの写真を見て実感しました。
永平寺は確か禅宗の総本山ですよね。
身延山久遠寺は、日蓮宗の総本山です。
入場料を取って、立派にきれいにするのがいいのか、入場料を取らずに素朴な感じがいいのか・・・。
>有名な観光地でもあってみやげものコールもすさまじかったです
身延山の門前町では、みやげものコールはほとんどないですよ。
たぶん、宗教観の違いでしょう。
大昔に天理市に行ったことあるけど、あそこの門前町も静かで、みやげものコールは皆無でした。
お客を取りに行くか、お客が来るのを待つか、寺の門前町としてどちらがいいのか。
永平寺、曹洞宗の大本山です。我が家も曹洞宗なので、北陸時代に何度か個人で行ったことがあります。
行ったのは20年程前ですが、門前町は賑やかでした。
お寺さんが檀家を集めて参拝の旅を行なっているので自ずとみやげものコールも盛んになるのでしょう。
そうですか、身延山の方では全く違う感じなのですね。
天理教なかはちょっとまた特殊ですが、あの場所柄というか、あそこで生活をする上ではやむなしなのかなというのが正直な感想でした。もちろん、僕的にはとってもいやな感じなのですが、幸い一番上にある近場の駐車場まではすっと上がっていくことができたので、直接声をかけられる心配もなかったのでよかったといえばよかったかもしれません。
向こう側がお金を一番使うのは、瓦の葺き替えだそうで、そのための御寄進をお願いしておりますなんていっておりました。個人的にそこは出してあげたかったのですが、こっちのタイミングでかないませんでした。規模としては想像以上に大きく大変なのだろうなとも思います。また、内部の拝観も結構いろいろな場所をみることができるので、永平寺に関しては入場料はありの方がいいのではないかなとも思いました。時間をかけてじっくり見て回りたいなと、再訪を願うほどよいところでしたよ。
そうでした、北陸にも住んでいらっしゃいましたね。
あの独特の空気感と申しましょうか、ピント張り詰めた心地よさは何ともいえませんでした。
その後の自分の生活に、一定の張りが出るくらい影響を受けたことは間違いないので、やっぱりいってよかったなぁと改めて考えさせてくれる場所です。
すべてが修行、何となく簡単でとても難しい。幾日も同じことを繰り返しながら、その日々の生活の中で新しいことを見つけていくのだろうと。そういう部分が、少しだけ感じ取れたのがよかったですね。
永平寺ではいろいろなイベントも行っているようで、交流も盛んなことがとても気に入りました。館内のどこかに書いてあったのですが、
「宗教が他の宗教を批判したりあれこれいうものじゃない、みんな仲良く某」みたいなかんじでして、確かにその通りだなと考えたりといろいろ得るものが多かった場所でした。