古参のはてな村民には超が付く有名な人たちだと思うし、私の様な新参者にも絡んではいないものの目にはしたことがある名前。idとは記号のような固有名詞なわけだけれど、その仮想と現実がリンクしていることをハッキリと衝撃的に実感されられた。

Hagex氏のblogを定期的に読んでいた事も無く、時折なんとなくリンクを辿って読んでいったりすることが多かった。印象はやや燃やすというか少し煽ってる感じがする人かなというもので、イケハヤ氏のそれとはまた違うので、そういう事からも嫌悪感などはさほど抱かずに読めていた事実がある。ここ最近でホッテントリ入りしたというか、大きく取り扱われていたのはニュースにも引用されている通報した場合のはてなの対応の早さに書かれていたもの。

一方で、低脳先生と呼ばれていた人については私自身絡まれたことはないし、ブコメで目にする事が多かったものの個人的に直に接する機会はなかった。現状として、その彼がHagex氏を殺害したというように現状は認識されている。また、増田にはそのようなコメントと取れるものも上がっている。電子的なリンクであったものが物理接続になったこの出来事は、ここ最近の世の中の変化の一つであって潜在性の顕在化の例かなとも思った。

セクハラからのme too、完全なるゼロリスク主義、責任のない個の無限自由、嫌煙ブームなどに見られる排斥傾向の倍旧、グローバルを叫び多様性を訴えつついにそぐわないものを排除していく姿勢は国民性なのかというともちろんそうでもなく、それぞれの個人が内包する要素の一部だと思っている。その一部がクローズアップされたり顕在化したり、大きな声によって影響も大きく見えたりしている事もあろうが、個人が手軽なデバイスで即時に発信できる世の中が浸透したと言うこととの兼ね合いは否定できないだろう。

顔の認識できる写真の公開が難しくなっていくことと、簡単にアップロードできる技術の進歩との対比としてみると興味深い。公開することに躊躇する必要性もなかった時代では、社会全体がそれらをなんとなく許容していたと思っている。そこに明確なルールはない【なんとなく】ではあるものの、容認する範囲が広かったという意味でだ。それが、公開するに当たって「ちょっと問題になったらどうしようか、やめとこうか」と考え始めた時期が今の雰囲気に移りゆく特異点であるように、いろんな事が技術の進歩とともに累進していなかった使用者である人間側が対応できていない事によって引き起こっている。

齟齬というと一言で済んでしまうけれど、共通認識がない新しい世界にはある種の許容範囲の拡大が求められる。先に到達したものはその新天地で土地の所有権を求めるように、地均しした初期の安定状態を普通・常識として定義づける。その定義づけ自体は問題が無いけれど、次に初めてやってくるこれからの来訪者と軋轢が必ず生まれる。その時に共生するために丁寧に説明することも必要だろうし、懐深く受け入れて行く方が滑らかに時代が進んでいくんじゃないかな。もちろん一方で、踏み入れる側には全力で個人の権利と責任の所在が明確でない無敵に自由を主張すべきじゃない。共通の共生のための最大公約数を双方で作り上げていく方がやはり好ましいと思う。

とはいえ、無利息で長期借り入れを当たり前の様に要求する人もいるわけで、常識の範囲を逸脱した違う世界の人とのやりとりは困難を極めるじゃないかと、文字通りの理が無い人だって多い。たくさんいる。各個の常識が違えば共通認識にたどり着ける前段階の摺り合わせだって厳しい。機能障害がなければおおよそ今までの環境によってその常識が形成されているわけで、そこまではさすがに推し量ることは難しい。

有名なリアルでも活動したりしている人は、そこでリスクを多分に取っていることになっている。ある意味で生を感じる場を奪われた人が行動に出たと考えると、その人にとってのネットであれど社会的な死につながる、あとが無い状況に追いやられた恨みは理屈としてはわからなくも無い(犯罪行為を肯定する意図は微塵も無いです)。<余談だけれど、こういう括弧書きがないと穿った見方でラベルを貼られる可能性を考えたってことは、そんなことですら都合良く解釈されてしまうネット社会の簡易さの裏側にある難解さだと思う。 >

功利的であったり、思考の理屈という純粋な論理といったものはこういうとき役に立つと思う。それが解明するんじゃ無くて、その思考プロセスみたいな部分が役に立つと考えているわけだ。ただし、こういうときに感情的に二極論に持ち込んでいく人もかなりの割合でいるわけだし、そこに関わり合いを持っていくのか持たないのかという最初のリスクの取り方でもわかれてくるんだよなあと。

ネット社会はというかSNSが隆盛を極める今にいたっては、日本人らしい部分が猛烈に効いているよ。ハイコンテクスト社会そのものじゃないかと。まさに忖度の社会がファジーで察しろの社会が今のテキスト社会だと感じている。

文脈を理解すれば通常は読めない文意を難解なプロセスで自説に都合良い文脈として読み取るわけだ。その読み取り方とプロセスは、読む側の人間に一任されるようなもの。それを正すには猛烈な労力がいるし、そもそも常識が違って共通認識が共有できない相手ならば全てが無駄であって徒労に終わる。そこが見えると当然人は近道をしようと考えるわけで、それが一刀両断になったり会話の終了であったり、根元をへし折るになる。ああ、正すっていうのも相手側からしたら反対かも知れないとも言えるわけでなあ、難しい。

私の場合はヘタレなので関わらないを選択するわけだが、意外に参加する人も多い。賢い人は対処出来るんだろうが、私は無理だしな。頭が悪いので多くの処理を出来ない私は、この文章のようにカント何位言いたいことをまとめることも出来ない。タイピングしながらブレブレである。それでも、いくらかHagex氏の記事は読んできたし、はてなを見ている部分もあってかショッキングなニュースであったわけで、頭の中がぐるぐるモヤモヤと何かが動きまくっている。

昔に比べたら殺人事件は減っているとか、そんなことはどうでもよくて、明らかに質が変化してきているんだと感じているの。事件の質では無くて、人の根底にあるものがあふれ出やすいというか、せき止める必要性を感じなくなっているのかも知れない。そう考える、考えなくとも主張するように変容したのかも知れない。と、感じている。

少しばかりの不自由さがある、ちょっとお腹が減るくらいの、頑張ってタッチできる希望があるくらいの世界がついて行けない私ら人間にはまだいいんじゃないかなとか。頭の中で混濁したものを言葉にするスキルが無いので困るけれど、しばらくいろいろ考え過ぎちゃうんだろう。

Hagex氏のご冥福をお祈りします。